アーティスト村上佳奈子「ステイローカル」のスタッフブログ

ウォーホル日記(Andy Warhol Diaries)という本があります。ウォーホルのタイピストとして働いていたパットハケットという人が書いた分厚い書籍ですが、これをヒントにステイローカル日記(Stay Local Diaries)というのを作りました。このブログの記事はスタッフによるものです。

村上佳奈子ウェブサイト
http://www.kanakomurakami.com/
ステイローカルオンラインショップ
https://staylocal.thebase.in/
Instagram
https://www.instagram.com/muccaccum/


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カタツムリは野菜と共に我が家にやってきた。

多分ナスにくっついていて、机に落ちた。

それで発見され、我が家で3週間ほど、過ごすことになった。


カタツムリは意外に早く歩く。

ググるとカタツムリは、時速48メートル程度で移動できるとのことだ。

実感としては少し目を離した隙に死角に逃げ込む程度の速度で移動する。


ビンの蓋を裏返して仮住まいさせている分には、姿を見失うことも結構あった。

きゅうりを食べては、緑色のフンをした。

フンは口の横の穴からする。


カタツムリは東北に帰ることになった。

新幹線での帰省に同行するのだ。

ちなみに東京に来る時はクール宅急便だった。


生まれた土地に帰るとき、カタツムリは乗せた手からなかなか動こうとしなかった。

多分慣れない環境に警戒していたためだろう。


暑い東京を逃れ、長野あたりへ行けば

「せいぜい30℃くらいで過ごせるかも」

と出かけたのはいいけど、結局同じくらいに暑くておまけに行き先はオフシーズンで飲食難民になりかけた。

温泉は足も付けられないくらいに熱く、入れずにいると地元民に手を差し伸べられ、なんとか熱いお湯に首までつかり、ほうほうのていで退散する。

でもそれが気持ちが良かった!

野沢温泉最高。

スキーシーズンなら入り方教えてくれないよね。

居合わせた地元民全員で湯もみしてくれないよね。

これがオフシーズンミラクル。

ノンスキーでも楽しかったよ。


帰りに寄った軽井沢も暑い。

この世に避暑地はもうありません。

あえて熱いおでんを食べて暑さに挑む。


山形も暑い。

あまりに暑いため意識朦朧としてくる(フェーン現象でその日は37℃)。

そのせいか体験が直接刻み込まれるのだ。


ナポリタン。アイスコーヒー。レモネード。

海。エアコンの弱い山居倉庫。湿気った花火。

魚。イカ。日本酒。シュノーケリング。広い空。

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いつもの過ごし方なのにいつもより「効く」。

いつものステイローカルの服を来て、いつものステイローカルブレンド飲んでるのに。

身体にきつい環境がローカルに侵食する。

それでいつもの感覚など簡単に覆される。

自分てなんだろう。

人間てなんだろう。

我々はどこから来たのか我々はどこへ行くのか。


君たちはどう生きるか。

物語と直接関係のなさそうなシーンでも、観客の記憶に残るキャラの動きやポーズやセリフを宮崎駿ほど持っている作家はそうはいない。ジブリ作品が繰り返しテレビで放映されてきたこともあるが、少なくとも表面的にはジブリ作品に対する観客の教養を育ててきた類稀な存在。引退後初の長編とあって、意味の深読みなしに見るのは不可能。


中盤に超現実的な展開になる中で繰り返される自作の反復を思わせるシーンは意識的にキリコやベックリンを引用していることから、無意識を描いていると思われる。過去作ではストーリー上必要な表現になっていたけれども自分の無意識のイメージではこうだったよ、ということなのだろうか。


ジブリといえば環境問題とか、自然の尊さとか教育的なテーマがあるイメージあるけど、観客の脳裏に残っているのはナウシカのセリフとか、サツキの弁当とか、オソノさんのさっぱりした感じだったりするのがユニークなところで、宮崎駿の本領はディテールにあると思う。それが本作は剥き出しのイメージが夢のような脈絡で描かれ続けるので、かなり気持ち悪い。筋を追おうとすると取り残される。だって無意識だし。千と千尋やポニョでも感じたあの取り残され感覚をさらに強めた感じで。作家のローカルなイメージを煮詰めたり希釈したりで作品は作られるけど、宮崎駿のローカルはあんな感じなのかと思うと感動するやら気持ち悪いやらで、すごいものを観たなと思った。昔のジブリも見直したい。そしてもう一度これを見直したい。

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カタツムリが家ごと移動するように、ステイローカルブレンドごと移動することが多い。

そんな感じで生きている。

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自家焙煎のコーヒーを飲んだことがあるだろうか?

それをブレンドしたコーヒーをドリップして飲んだことがあるだろうか?

「コーヒーは苦い飲み物」

と思っているのなら、それは自家焙煎のブレンドコーヒーをまだ飲んだことのない人に違いない。


偉そうに書いたものの、筆者はコーヒーの味を表現する言葉を持っていない。
 

自家焙煎のコーヒーを一口飲んだ感想を書こうとすれば例えばこんな感じだ。


「香りがすごいなー。まず苦味がくるよ、だけど雑な苦味ではなくて。うん、豆の香ばしさがあってぇ、最後に残る香りがぁー、今まで飲んできたのとは違うんだなぁー。うまーい。」


舌がもつれながらも、なんとか自分の言葉で表現しようとすると、醜い表現なりに自分の言葉と味覚とが繋がるような気がする。それでとりあえず、家庭内では味を共有できているのは楽しい。


しかし、おそらくそれも勘違いであり、味覚という抽象的な感覚を正確に共有することは実に困難なことだ。


その点、テレビやネットで紹介されるいわゆる「食レポ」は感想を実にわかりやすく表現する。わかりやすい表現は広く共有され、万人と感情を共有できるような気がする。
 

それは大変シンプルで面白いが、わかりやすいが故に何か取りこぼしている気がする。同じ情報を受け取ったとしても、受け手が同じ感覚を共有するとは限らないし、そもそも、情報の受け取り方や伝わり方は、受け手の知識や感覚に依存するからだ。


そのせいか、ネット上の言葉は、よりシンプルに強いものになる。

「〜でヤバい」

「〜神」

「無限〜」

極端な言葉でしか不特定多数の人間と共有するのが難しいのは、膨大な情報が溢れる今の時代では、埋もれやすい繊細な表現では届かないという理由がある。他人と繋がるという欲求を満たすには、少しでも強くインパクトのある表現が必要だ。
 

即座に感情を揺さぶらないと、他人に届く前に目の前から消えてしまう。その影響なのか世の中、何かにつけて白黒つけたがる。


さっきのコーヒーの感想はそのようなメディアで映えない、バズらない表現だ。
 

こういう表現はメディアでは活きない。でも、自分にはそれがしっくりくる。

「白か黒」

「右か左」

「勝ち組負け組」

そんな両極端ばかりの状態にはもう飽きた。


自家焙煎のブレンドコーヒーには、インパクト重視の分断の間にある、中間領域の再生への可能性を感じる。
 

飲むと、きっと味の感想を言いたくなる、舌がもつれて、うまいこと言えなくても。美味しいコーヒーというのは、香りと味覚の抽象表現であり、繊細な中間領域を表現することを促す装置になると気付いた。


ネットはメディアのあり方やコミュニケーションの形を変えたのかもしれない。さらに、コロナによってリアルなコミュニケーションのあり方にもまた、変化がおきた。
 

しかし、人間は変わらない。ネットは共通意識を限りなく巨大化させるツールではなく、違いを知るツールとして使うのが有効だ。それは現実世界においても同じことで、「それぞれのローカルな思い込み」をどこかで共有したい。


例えば、同じコーヒーを飲むことをきっかけにして。


※「ステイローカルブレンド」はこちらのサイトで販売もしています。よろしければ覗いてみてください。

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平日にも関わらず結構混んでいる。

予約優先のチケットを取っておいて良かった。


2006年の全景展ではその物量に圧倒された記憶がある。

それも17年も前かと思うと時間が経つのは早いものだとおもう。


しかし大竹伸朗はその頃と変わらない場所にいた。


ポップでカオスでいながらも、懐かしい感じのする作品群は、今回も物量は多いものの、全景展ほどのボリュームは感じなかった


大竹伸朗の作品と向き合うと、美術というメディアと接することにおいて、自分が西洋人とは違った文脈をもつ人種であることを再確認させられる。


西洋美術に向き合う時に僅かに感じるヨソ者的な居心地の悪さは全くない、無意味でカオスなようでいて、実は自分たちが本来持っている等身大の日本人的成分が多く含まれているのを感じられる。


かと言って、「日本人なりの現代アートを作る」みたいな作為もなく、「美術の伝統的な様式」もスクラップブックに貼り付ける素材の一つくらいにしか捉えていないかのように、別に美術に落とし込まないけど何か?的なふてぶてしさがある。


展示室を満たすのは無意味や無作為。

ポップカルチャーとの親和性。

西洋への憧れと誤解。

500点を見たというよりは1点の大きな絵を見たような気がする。


帰り道、味気ない高層ビルや高速道路の景色がこの国の持つ大竹伸朗的世界をすっぽり覆い隠しているようにも感じて、いつも以上に街が退屈なものに見えた。
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