アーティスト村上佳奈子「ステイローカル」のスタッフブログ

ウォーホル日記(Andy Warhol Diaries)という本があります。ウォーホルのタイピストとして働いていたパットハケットという人が書いた分厚い書籍ですが、これをヒントにステイローカル日記(Stay Local Diaries)というのを作りました。このブログの記事はスタッフによるものです。

村上佳奈子ウェブサイト
http://www.kanakomurakami.com/
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自家焙煎のコーヒーを飲んだことがあるだろうか?

それをブレンドしたコーヒーをドリップして飲んだことがあるだろうか?

「コーヒーは苦い飲み物」

と思っているのなら、それは自家焙煎のブレンドコーヒーをまだ飲んだことのない人に違いない。


偉そうに書いたものの、筆者はコーヒーの味を表現する言葉を持っていない。
 

自家焙煎のコーヒーを一口飲んだ感想を書こうとすれば例えばこんな感じだ。


「香りがすごいなー。まず苦味がくるよ、だけど雑な苦味ではなくて。うん、豆の香ばしさがあってぇ、最後に残る香りがぁー、今まで飲んできたのとは違うんだなぁー。うまーい。」


舌がもつれながらも、なんとか自分の言葉で表現しようとすると、醜い表現なりに自分の言葉と味覚とが繋がるような気がする。それでとりあえず、家庭内では味を共有できているのは楽しい。


しかし、おそらくそれも勘違いであり、味覚という抽象的な感覚を正確に共有することは実に困難なことだ。


その点、テレビやネットで紹介されるいわゆる「食レポ」は感想を実にわかりやすく表現する。わかりやすい表現は広く共有され、万人と感情を共有できるような気がする。
 

それは大変シンプルで面白いが、わかりやすいが故に何か取りこぼしている気がする。同じ情報を受け取ったとしても、受け手が同じ感覚を共有するとは限らないし、そもそも、情報の受け取り方や伝わり方は、受け手の知識や感覚に依存するからだ。


そのせいか、ネット上の言葉は、よりシンプルに強いものになる。

「〜でヤバい」

「〜神」

「無限〜」

極端な言葉でしか不特定多数の人間と共有するのが難しいのは、膨大な情報が溢れる今の時代では、埋もれやすい繊細な表現では届かないという理由がある。他人と繋がるという欲求を満たすには、少しでも強くインパクトのある表現が必要だ。
 

即座に感情を揺さぶらないと、他人に届く前に目の前から消えてしまう。その影響なのか世の中、何かにつけて白黒つけたがる。


さっきのコーヒーの感想はそのようなメディアで映えない、バズらない表現だ。
 

こういう表現はメディアでは活きない。でも、自分にはそれがしっくりくる。

「白か黒」

「右か左」

「勝ち組負け組」

そんな両極端ばかりの状態にはもう飽きた。


自家焙煎のブレンドコーヒーには、インパクト重視の分断の間にある、中間領域の再生への可能性を感じる。
 

飲むと、きっと味の感想を言いたくなる、舌がもつれて、うまいこと言えなくても。美味しいコーヒーというのは、香りと味覚の抽象表現であり、繊細な中間領域を表現することを促す装置になると気付いた。


ネットはメディアのあり方やコミュニケーションの形を変えたのかもしれない。さらに、コロナによってリアルなコミュニケーションのあり方にもまた、変化がおきた。
 

しかし、人間は変わらない。ネットは共通意識を限りなく巨大化させるツールではなく、違いを知るツールとして使うのが有効だ。それは現実世界においても同じことで、「それぞれのローカルな思い込み」をどこかで共有したい。


例えば、同じコーヒーを飲むことをきっかけにして。


※「ステイローカルブレンド」はこちらのサイトで販売もしています。よろしければ覗いてみてください。

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平日にも関わらず結構混んでいる。

予約優先のチケットを取っておいて良かった。


2006年の全景展ではその物量に圧倒された記憶がある。

それも17年も前かと思うと時間が経つのは早いものだとおもう。


しかし大竹伸朗はその頃と変わらない場所にいた。


ポップでカオスでいながらも、懐かしい感じのする作品群は、今回も物量は多いものの、全景展ほどのボリュームは感じなかった


大竹伸朗の作品と向き合うと、美術というメディアと接することにおいて、自分が西洋人とは違った文脈をもつ人種であることを再確認させられる。


西洋美術に向き合う時に僅かに感じるヨソ者的な居心地の悪さは全くない、無意味でカオスなようでいて、実は自分たちが本来持っている等身大の日本人的成分が多く含まれているのを感じられる。


かと言って、「日本人なりの現代アートを作る」みたいな作為もなく、「美術の伝統的な様式」もスクラップブックに貼り付ける素材の一つくらいにしか捉えていないかのように、別に美術に落とし込まないけど何か?的なふてぶてしさがある。


展示室を満たすのは無意味や無作為。

ポップカルチャーとの親和性。

西洋への憧れと誤解。

500点を見たというよりは1点の大きな絵を見たような気がする。


帰り道、味気ない高層ビルや高速道路の景色がこの国の持つ大竹伸朗的世界をすっぽり覆い隠しているようにも感じて、いつも以上に街が退屈なものに見えた。
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いくら掘っても食われた芋が出てくるではないか。

遅すぎたのだ。

「今は忙しいので…」

「もう少しは大丈夫…」

「来月は行けるはず」

とか、色々と理由をつけて、収穫を遅らせてきたツケは今こそ払わされることになった。

人の都合などと関係なく作物もまたそれぞれのペースで成長し、実をつけ、そして大半が何かに食われていた。

「やられた…」

と頭を抱えていると、

「ヒョン」

と目の隅を何かが横切った。

最初アマガエルか何かだと思ったが違った。

長いしっぽに30センチほどの身体。

走り去る後ろ姿は…

巨大な野ネズミだった。

熟しすぎ、大きくなりすぎたさつまいもはネズミにとってさぞかしご馳走だったに違いない。

「完全なる敗北」

かじられた芋を積み上げながらそう思った。

芋

しかし、たくましく生き抜く野生のパワーにはいつも学習させられる。

ネズミは地中の芋まで食べにくる。今度はネズミよりもはやく収穫するべきだという教訓を得た。


思えば、ネズミという生き物はよくキャラクターとして利用され、漫画やアニメの世界でもしばしば登場し、時には擬人化され、その姿は賢くたくましく描かれる。


実際、ネズミは賢いが、人間には害獣として扱われる存在だ。

人の作物はかじるし、ネズミが住み着いた家もかじられたり、糞尿で痛むことになる。

捕獲するのも一苦労の厄介ものなのだ。


アートの世界でもよくネズミを見かける。

特にストリート系の現代アート作家はよくネズミのイメージを利用する。

つかず離れず人間の周りを生きるイメージは確かにストリートのイメージだし、畑にトンネルを掘り、芋を盗み食いする姿などは文字通りのアンダーグラウンドなのである。


しかし同時にネズミは人間に愛されてもいる。

一旦キャラクター化されれば、世界中に夢の国が出現するし、随分魅力的な存在なのであった。


ネズミと人間との関係には常にそうした分裂した感情がつきまとう。ならば芋を盗み食われたという憎らしい気持ちと同じくらいの、愛情を表してみようと思った。

反発し合う感情は同居することで不思議なエネルギーを生む。


かわいいネズミを中心にプリントした、ステイローカルの芋とネズミのトレーナーはこうして生まれた。

今回芋ほりは「完敗」したと思っていたが、このトレーナーを着ると、「引き分け」くらいには持ち込めたような気がした。


※「ネズミのトレーナー」はこちらのサイトで販売もしています。よろしければ覗いてみてください。

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