アーティスト村上佳奈子「ステイローカル」のスタッフブログ

ウォーホル日記という本があります。ウォーホルのタイピストとして働いていたパットハケットという人が書いた分厚い書籍ですが、これをヒントにステイローカル日記というのを作りました。これも私自身ではなく私のパートナーが書いているものです。

村上佳奈子ウェブサイト
http://www.kanakomurakami.com/
ステイローカルオンラインショップ
https://staylocal.thebase.in/
ステイローカルコレクション
https://www.instagram.com/staylocalcollection/
ステイローカルミュージック
https://www.instagram.com/staylocalmusic/


前衛プレイ
”前衛プレイ”という言葉を思いついて、洋服のモデル名につけた。

その昔、前衛芸術のシュルレアリスムではお互い関係のない模様や絵を切ったり張り合わせて心の無意識を表現した。

またピカソみたいに子供でも書けるような絵をわざと描いたり、形をわざと歪めて絵を描いたり、抽象的で正体のわからないモノが前衛芸術の領域になった。子供や無意識や夢の世界のような純粋なイメージは前衛芸術の源泉になった。

このところ、数10年に1度の大変な事態が毎年みたいに起こり、真実とデマの情報が同じスピードで入ってくるし、何を信じていいのかわからないという不安がある。そんな時は自分の中で遊びの実験をしてみる。

自分の心の中にある「正体のわからない感情」を「前衛」と呼び変える。気軽に遊びとして行う意味で「プレイ」。心にもやもやしたものがあるときは、「今、前衛プレイ中」という感じで気持ちを扱ってみる実験。わからないモノを掴み取りたいとき「前衛」や「芸術」という名前は便利な物差しになる。

混沌として先の見えないのが恐ろしい世の中。でもよく考えてみればもっとデタラメなこともあって、よく見たらそれは自分自身だったりして面白い。

今はそんな感覚も大切にしたい。

sisigasira
美大を出て、彫刻の制作を続け、時々アートフェアなどに出してきたが、思うように先が見えない。木を彫ることが好きで木彫をやってきたが、その先に自分の理想の姿があるのかがわからない。そして美術とは何なのかがわからない。美大で教わる技術は、いいアーティストになる技術ではない。1度立ち止まるチャンスがきた。

2018年8月20日から銀座の画廊で行われた個展が「くりかえすダンス」という展覧会だ。今の時期になると思い出す。それは、暑さと疲労でへろへろになりながらも、都内のポストなどに片っ端からチラシを撒いていた夜のことだ。それはアトリエで黙々と頑張ることだけが制作ではないと自分を再教育する儀式でもあった。

今思えば笑える。そんな身体的な実感だけが、前に進んでいる唯一の頼りである程の気分だったのだ。

276問の質問もその一つだった。セルフビルドでいままで自分がしてきたのとは違うインフラを作ろうとした。都内でチラシを1万枚配ったこともその一つだ。

「誰も知らなかったあたりまえ。」

チラシには大きく印刷された文字と作品のコラージュを配置した。本当にあたりまえを知りたかったのは自分自身であった。自分なりに刺激的なかたちを作っていくしかなかった。

芸術の歴史。主観的・客観的な自分のアイデンティティやルーツ。自分の考えや特徴。天災や災害の多い今の状況への思い。そんな成分を色々と詰め込んだのが「くりかえすダンス」という作品だった。それは混在する要素が同居した作品だ。当時の揺れる精神状態を表したように獅子頭とゴム手袋、脚立と木彫で構成された最も錯乱した作品だ。

へろへろの足取りで、そうやって自分の足で進んだ場所がなんとなく楽しく歩けるようになってきて、今服を作ったり、歌ったりしている。

「くりかえすダンス」の中心に置かれていた青い獅子頭は笑っているのかあきれているのか、いまもアトリエの壁面で大口を開けている。

276

粗忽長屋という落語がある。行き倒れの死体が自分であると、周囲に言い聞かされるうちに自分が死んだのだと思ってしまう男の話だ。行き倒れの死体を抱き「死んだ俺を抱いている俺は誰なんだろう?」というオチ。

現代を生きる私たちも古典落語に出てくる男と同じ。みんな自分のことはよくわからない。

「町でばったり自分に会ってもすぐわかるように自分のことをよく見ておけ」

なんてギャグがあるけど、それは大変重要なアドバイスだ。落語の男と同じようにまわりの期待や環境に形つくられる人格はその周囲の環境に協調するための人格であって、それは一体誰なんだろう?
 
塩田千春の本で美術学生時代、マリーナ・アヴラモヴィッチの授業で断食授業というものがあって、その授業では七日間断食をさせられた末に、朦朧とした状態でメモに一言書かされるというのがあって、その時書いた言葉が自分にとって重要な本質であるというエピソードがあった。「自分の思う自分」というものは結構人目を気にして飾り立てた自分であったり、いつかこうなりたいという憧れからくる理想像のこともある。七日間の断食はそうした見栄を取り除くための荒療治なのだろうか。
 
村上が前回個展をやったときに、自分掘り下げ作業として、自分への質問276問というのをやった。どうして276問だったかは自分のことなのに全く記憶にないが。

質問内容はネット上によくあるものだ。
「あなたが1日で一番好きな時間は何ですか?」
「あなたが生きてるなぁと思うときは?」
「今の自分で好きなところを1つ挙げてください」
「自分を叱ってみてください」
「過去においての最も恐怖を感じたことは?」
「何を触るのがいやですか?」
当たり障りのないものからよくわからない質問まで1つづつ回答した。
出した答えに「なぜ?」を繰り返すことで本質的な自分を認識することを狙った。自分を計測する行為として今やっている「ステイローカルミュージック」とよく似ている。
 
「やりたいことをやる」「やりたいことだけやって生きていく」
こういうのは、インターネット以後よく言われる言葉で、情報や出会いがグローバルなスケールになったことが背景にあるのだと思う。たしかに情報技術の発達で場所に縛られにくくなり価値観が変わったことは事実。でも、「誰の」やりたいことであるかという点は意外と疎かにされていて、最大公約数的幸福をみんなで追いかけまわしている感じもある。情報との出会いだって誰かのレビューやら検索履歴からのおすすめをなんとなく受け取っていて個人レベルで世界は大して広がっていないし、日本語の情報しか見ていない。

むしろどうしてもやってしまうことの方が本当にやりたいことなんじゃないか。
ならばそれはオフラインの日常生活にあるんじゃないか。
それはネット使わなくても今から出来るんじゃないか。

そんなことで靴下は右足から履かないと気持ちが悪いとか、すぐに鼻を触ってしまうとか、そういう生理的な気持ち良さとか悪さを掘り下げるとどうなるかという実験をしてみている。今までよりちょっと詳しく自分のことをよくみてみる。

また、周囲の環境や衣食住インフラなどに目をやると、今までなんとなくやってたことに手を入れていくと気持ちいい感覚があることに気づいて人生変わる。水の使い方変えたり、早寝早起きしてみたり、ソーラー発電してお湯沸かしたり。人格が環境次第なら衣食住や習慣変えていくことで変わっていく気持ち良さに目覚めている。

使う水の量がわかっているとなぜ気持ち良いのか。
早寝早起きがなぜ気持ち良いのか。
効率悪いソーラー発電になぜ感動するのか。

これはローカルのエリアを自分の内部から周りの環境まで少し広げてみる実験だ。
自分のことはなかなかはっきりとはわからないが、これが生理的に気持ちがいいことだけはよくわかる。

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