それは幸福な本との出会い方だった。
宮沢章夫は大学の先輩なのだった。
と言っても、世代も全く違うし、別に面識があるわけではない。
学生の時、しりあがり寿はキャンパスで見かけたことがある。
横尾忠則も見かけたことがある。
宮沢章夫には、そういうのもない。
その程度の関係のなさであるが、大学に入る前から筆者は宮沢章夫のことを知っていた。
時間ばかりがあった浪人時代、立ち読みが趣味でよく本屋に立っていた。
そこで読んだのが「牛への道」というエッセイだった。
冒頭を読み始め、どこが面白いのか良くわからなかったのだが、やがてこらえきれず爆笑した。
後で読み返して考えるに、その面白さは「ものの見方」の笑いである。
「牛への道」の冒頭は何のボタンを押してもスポーツドリンクが出てくる自動販売機のエッセイだ。側から見ればただジュースを買おうとしている人の話がなぜ笑いを生むのか。
特に何も起きなくても笑いが生まれる「ものの見方」がそこにある。その見方は演劇の作法に対してや、例えば、「瓶で牛乳を飲んでいる途中、瓶のラベルをなぜか見てしまう人」にも向けられる。それは「当たり前として見過ごされていること」への冷静な目線だ。
「手を上げているとバカに見える」
「当たり前のような顔をした難解」
「バナナが一本」
「カーディガンを着た悪人はいない」
とか他にも好きなエッセイがたくさんあった。
最近の宮沢章夫の本は読んでいなかった。しかし自分が今も「常識的」だったり、「芸術的」「タマビ的」「日本的」「男性的」「女性的」なんでもいいのだが、〇〇的であることにある程度の距離を置いた目線で見てしまうのは、多分宮沢章夫のせいだ。ありがとうございました。