アルチザン
大体において、岡本太郎は片手落ちで評価されている。

「芸術は爆発だ」

はそのフレーズのキャッチーさと、日本における芸術に対する(わからないものという)イメージが相まって、変なおじさんとしての理解が定着しているように思える。

一方では、大量に残されている書籍の内容の書きぶりの自己啓発的な側面が強調され、若者の悩みの受け皿として、太郎のカウンター的発想が支持されている面もある。

また、太陽の塔の万博のモニュメントによって、よく知らなくても見たことはあるという普遍性を持ち得ていることも、太郎を特別な存在にしている点である。

「爆発」のイメージを説明する言葉として、「対極主義」という言葉がある。

自然などの外部対象を相対的にとらえ、反対する立場としてぶつかることでお互いに高めあうといったイメージのことを指すのだと考える。

そのロックにも通ずるカウンター感覚こそが、若者を引き付ける理由であると思うし、ある程度普遍性を持ち得ている理由である。

それでは、太郎がそのイズムを持ち得たきっかけは何か、そこがメディアで紹介される際に大抵省かれるポイントである。

太郎は強力な伝統否定論者であった。

そして、その否定ぶりには徹底的に論理的な言い分があり、日本の美術界や社会的哲学的問題を暴き出していたのである。

例えば、日本において、無闇に良きこととされている習慣や伝統に対して、太郎は攻撃をしかける。

わびさびの世界にはけりを入れるがごとく、凶弾する。
その切れ味はどこまでも冷静で、徹底的である。

変なおじさんとしての姿はそこにはない。
いや、同じことを言っているのだけれど、大衆には本質が見えていないだけだ。

キャッチーでありながらガチである点。
そこが太郎のすごい点である。

そのような人間になぜ太郎がなれたのか。

良く知られたように、岡本太郎は、漫画家の岡本一平と詩人の岡本かの子の息子である。
特にかの子の影響は強いと思われる。

その家庭は本人もよく語っているように、普通の家庭ではなかったようである。

子供というものは、普通でないことを嫌う
それはコンプレックスとして現れるが、その結果現れる表現は自分の家庭と違う社会を憎むか、社会と違う親を憎むかどちらかである。

太郎は、本にも記しているように親に対する視点はクールではあるが愛情にあふれている。

一方社会に対するまなざしは家庭を発端としていると考えられる。
芸術至上主義の家庭に育った感覚からすると、当時の日本の文化は遅れすぎていたのである(今も状況は同じ)。

しかし、芸術そのものは、社会から独立していまうと、根なし草のようなものである。
自律した存在でありうるには、外部に対立する以外になかったのだ。

前衛芸術は結果として未来を先取る作品を生むこともあるが、ほとんどは作者の都合から生まれる。
伝統と対抗するか、社会と対抗するか。

いずれにしても新しいものはそれが生み出される理由が作者の個人的動機にあるからである。

太郎といえども、孤立への恐怖と対立せずにいられない欲求とのはざまに常にいたはずである。

岡本太郎が生まれたのは、特殊な育ちによるものだし、対極主義は本人にとって必要なものだったのである。

いまの時代に太郎を理解するのであれば、単にその哲学を実装することではなく、自分が法隆寺になるがごとく、自分の裸の本心と向き合うことなのではないか。

実際太郎はそうしていたのである。

なんでも闇雲に前向きに落とし込む傾向が最近あるが、本人はのぞんでいないのではと、特に思うのである。