アーティスト村上佳奈子「ステイローカル」のスタッフブログ

ウォーホル日記(Andy Warhol Diaries)という本があります。ウォーホルのタイピストとして働いていたパットハケットという人が書いた分厚い書籍ですが、これをヒントにステイローカル日記(Stay Local Diaries)というのを作りました。このブログの記事はスタッフによるものです。

村上佳奈子ウェブサイト
http://www.kanakomurakami.com/
ステイローカルオンラインショップ
https://staylocal.thebase.in/
Instagram
https://www.instagram.com/muccaccum/

2021年06月

276
粗忽長屋という落語がある。行き倒れの死体が自分であると、周囲に言い聞かされるうちに自分が死んだのだと思ってしまう男の話だ。行き倒れの死体を抱き「死んだ俺を抱いている俺は誰なんだろう?」というオチ。


現代を生きる私たちも古典落語に出てくる男と同じ。みんな自分のことはよくわからない。


「町でばったり自分に会ってもすぐわかるように自分のことをよく見ておけ」


なんてギャグがあるけど、それは大変重要なアドバイスだ。落語の男と同じようにまわりの期待や環境に形つくられる人格はその周囲の環境に協調するための人格であって、それは一体誰なんだろう?

 

塩田千春の本で美術学生時代、マリーナ・アヴラモヴィッチの授業で断食授業というものがあって、その授業では七日間断食をさせられた末に、朦朧とした状態でメモに一言書かされるというのがあって、その時書いた言葉が自分にとって重要な本質であるというエピソードがあった。「自分の思う自分」というものは結構人目を気にして飾り立てた自分であったり、いつかこうなりたいという憧れからくる理想像のこともある。七日間の断食はそうした見栄を取り除くための荒療治なのだろうか。

 

村上が前回個展をやったときに、自分掘り下げ作業として、自分への質問276問というのをやった。どうして276問だったかは自分のことなのに全く記憶にないが。


質問内容はネット上によくあるものだ。

「あなたが1日で一番好きな時間は何ですか?」

「あなたが生きてるなぁと思うときは?」

「今の自分で好きなところを1つ挙げてください」

「自分を叱ってみてください」

「過去においての最も恐怖を感じたことは?」

「何を触るのがいやですか?」

当たり障りのないものからよくわからない質問まで1つづつ回答した。

出した答えに「なぜ?」を繰り返すことで本質的な自分を認識することを狙った。自分を計測する行為として今やっている「ステイローカルミュージック」とよく似ている。

 

「やりたいことをやる」「やりたいことだけやって生きていく」

こういうのは、インターネット以後よく言われる言葉で、情報や出会いがグローバルなスケールになったことが背景にあるのだと思う。たしかに情報技術の発達で場所に縛られにくくなり価値観が変わったことは事実。でも、「誰の」やりたいことであるかという点は意外と疎かにされていて、最大公約数的幸福をみんなで追いかけまわしている感じもある。情報との出会いだって誰かのレビューやら検索履歴からのおすすめをなんとなく受け取っていて個人レベルで世界は大して広がっていないし、日本語の情報しか見ていない。


むしろどうしてもやってしまうことの方が本当にやりたいことなんじゃないか。

ならばそれはオフラインの日常生活にあるんじゃないか。

それはネット使わなくても今から出来るんじゃないか。


そんなことで靴下は右足から履かないと気持ちが悪いとか、すぐに鼻を触ってしまうとか、そういう生理的な気持ち良さとか悪さを掘り下げるとどうなるかという実験をしてみている。今までよりちょっと詳しく自分のことをよくみてみる。


また、周囲の環境や衣食住インフラなどに目をやると、今までなんとなくやってたことに手を入れていくと気持ちいい感覚があることに気づいて人生変わる。水の使い方変えたり、早寝早起きしてみたり、ソーラー発電してお湯沸かしたり。人格が環境次第なら衣食住や習慣変えていくことで変わっていく気持ち良さに目覚めている。


使う水の量がわかっているとなぜ気持ち良いのか。

早寝早起きがなぜ気持ち良いのか。

効率悪いソーラー発電になぜ感動するのか。


これはローカルのエリアを自分の内部から周りの環境まで少し広げてみる実験だ。

自分のことはなかなかはっきりとはわからないが、これが生理的に気持ちがいいことだけはよくわかる。

ポリタンク
人間にとって「知る」という刺激は強烈なのだ。
また、見えることではじめて意識することがある。

例えば、蛇口から出る水の量。
自分が洗い物に何リットルの水を使っているか知っている人がいるだろうか?
何?環境の話?とか思われるかもしれないが、それは違う。
節約の話?いや、それも違う。

娯楽の話である。

最近我が家ではポリタンクを購入した。容量20ℓのポリタンク。
きっかけはなんだったろうか?

住居のほかにアトリエを借りていて、その水道代が無駄になる。
って節約の話じゃん。いや確かにきっかけはそうだった。

ところで、水道代がどのように決まっているか知っている人はいるだろうか?
そりゃ、使った量でしょ?そうなんだけど、これ結構複雑。
うちの場合、基本料金が860円。
そこから5㎥まではタダ。基本料に含まれている。
ここで㎥についておさらいをしよう。
1㎥は1辺の長さが 1 mの立方体の体積。
水で換算すると1000ℓである。
牛乳パック1000本分。

うちの水道代は毎月基本料を超えて請求されているので5000ℓは余裕で使っているということ。結構使うのだね。

5㎥で860円とすると、860÷5000で1ℓあたり0.172円だ。基本料には人件費や設備の維持にかかるお金が含まれてるのだろうけど、それらを無視するとそうなる。

6㎥から10㎥までは1㎥につき22円。
1000ℓ22円てことは1ℓ0.022円て安い!
11㎥から20㎥までは128円。
1ℓ0.128円に値上げされる。それでも安い。

安いと感じるのは水を買うことに慣れたからか?
いや水の重要性から考えるとやっぱり安い。都市のインフラは偉大だ。

そんな風に水のコスパの高さを可視化するだけでも面白い。
普段意識しない課金システムを知ることも。

もともと安いから料金の節約という目的は失われるのだけれど、風呂や洗濯を使わないアトリエの水道代には多くの無駄があることが判明した。基本料金内の使いきれていない水、これを湧き水と名付けてみた。家から5分ほどのアトリエの湧き水。

最近は毎日湧き水をくみにいく。
使い道は主に洗い物。

ポリタンクを使うと洗い物に使う水の量がはっきりと可視化される。
はじめて洗い物に使ったときは1回の洗い物に20ℓあっさり使い果たした。

アトリエから家に20ℓの水は運ぶのはそれなりの重労働だ。20キロあるから。
しかし、洗い物に使い切るのはあっという間のことだった。
その感覚のずれが面白い。というか驚きだった。

次の日も湧き水をくんでくる。
しかし、2日目の洗い物はお皿の揃えかたや段取りに工夫をしたら、なんと水が余った。
うれしい!て馬鹿か。すぐ横に水道があるのに。

でも人間というものは、「20ℓ以内でやれ」と制限される(誰もしてないが)とその上を行ってやろうと考えるものだ。奇妙な娯楽性が出てくる。
そしてその数日後には半分の10ℓで作業を達成できた。
そこにはかなりの満足感があり、そんなことを続けるうちにやがて目覚めた感覚がある。それは、
「水は偉大」「使用量をわかって使うと気持ち良い」
というごくごくシンプルな感覚である。

こういう感覚を忘れさせていたのは何だろうか。
それは「便利」というレイヤーだ。

便利であることは疑いなくすばらしいものであり、水道を例にとれば、都市ではほぼ例外なく恐ろしい程のコスパの高さで使用することが可能だ。
そのかわり思考は停止する。
どの量が自分にとって必要な量で、どのくらい使っているのか。それにどれだけのコストがかかっているか意識しなくなる。

1度そこに意識がいくと、計測できる普段は目に見えない容量が存在することがわかる。
洗濯1回には100ℓの水を使う。
トイレは1回8ℓ。1日5,6回行くとして、2人で1日約100ℓ。
風呂は1人1回で150ℓくらいなので、2人で300ℓ。

この感覚がどのような表現に発展するかはまだわからない。
しかし、水の量を可視化して使うのが気持ちいいのと、ポリタンクから流れ出るときに聞こえる「トゥクトゥク」という音が生理的に心地よい音であるということだけは確かなのである。

syohyo
社会は適度な動きが苦手。

色々な利害がからんで動きも遅い。

社会は私たち個人個人のためのものではないし、自分の気持ちと関係なく動いていく。置いて行かれるのは嫌だと、いつも物事の判断を常識やテレビやネットの情報を頼りにしていたら、いつも振り回されてばかりで、不安が多い。心に余裕がない。

もともと社会と個人の幸福の利害は必ずしも一致しないし、社会には自分ぴったりのものはそもそも用意されていない。

ならば私たちはどうしたらいいのだろう?

ステイローカルというブランドをやっている。主に自分のためにつくるブランドだ。
服を作るときには寸法を測る。必要な布や材料の量は寸法で決まる。
自分で服を作るとわかる。
世の中の既存の服の寸法はSMLなどのおおまかなサイズであって、自分にぴったりなものはないと。

また、彫刻もつくっている。彫刻や絵は展示場所やキャンバスの大きさなど埋めるべきサイズが決まった上で制作されることが多い。最初に寸法を決めずに作り出すとわけがわからなくなるものだ。でも、社会生活は、自分の寸法を知らずに活動をはじめることが多い。この場合の寸法とは心の状態のことだ。

自分がどんな時に嬉しいか?悲しいか?腹が立つか?
その容量を感情の寸法と呼んでみる。

寸法を測るということは自分のサイズを知ることだ。計測を続けると、自分にとって満足なサイズがわかってくる。今流通している服のサイズも社会も常識も習慣もあなたのためのものではない。自分自身の喜びの寸法、悲しみの寸法、怒りの寸法を計測してみると、どうなるだろうか?

感情の寸法は、センチメートルやグラムのような単位が採用されないので自分以外とは単位を共有しない言わば「ゴミ」である。しかし、自分だけでもいいから大体の寸法を知ることが出来ればいい。

周りのことは気にせず自分の興味や疑問に耳をすまし、気になったことは繰り返しやってみる。
何でもいい。
毎日服を作ってみたり、毎日歌を歌ってみる。
繰り返すことで自分の満足のラインが見えてくる。
経験が積み重なる。
自分のエネルギーの量を知る。
外部との反響で輪郭が浮かび上がる。
それは言わば感情の展開図である。

村上の場合、この展開図は彫刻や服や歌で作られる。
この展開図の示すエリアをローカルと呼んでいる。
ローカルは実体を持たないが、シェルターのように存在する。
このローカルで制作した彫刻や服や音楽が外に出ていく。
ミシンに興味を持った時はマスクを作って配布したり、干し芋に興味を持てば、作りすぎた干し芋をお裾分けしたりしている。それらは自分の興味を計測し続けた結果の産物だ。
絵画や彫刻のような芸術は寸法の計測から始めるのだとすると、芸術=計測と言い換えることだってできるのかもしれない。

これがステイローカルの活動である。

2021年5月、ステイローカルは商標権を取得した。

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