粗忽長屋という落語がある。行き倒れの死体が自分であると、周囲に言い聞かされるうちに自分が死んだのだと思ってしまう男の話だ。行き倒れの死体を抱き「死んだ俺を抱いている俺は誰なんだろう?」というオチ。
現代を生きる私たちも古典落語に出てくる男と同じ。みんな自分のことはよくわからない。
「町でばったり自分に会ってもすぐわかるように自分のことをよく見ておけ」
なんてギャグがあるけど、それは大変重要なアドバイスだ。落語の男と同じようにまわりの期待や環境に形つくられる人格はその周囲の環境に協調するための人格であって、それは一体誰なんだろう?
塩田千春の本で美術学生時代、マリーナ・アヴラモヴィッチの授業で断食授業というものがあって、その授業では七日間断食をさせられた末に、朦朧とした状態でメモに一言書かされるというのがあって、その時書いた言葉が自分にとって重要な本質であるというエピソードがあった。「自分の思う自分」というものは結構人目を気にして飾り立てた自分であったり、いつかこうなりたいという憧れからくる理想像のこともある。七日間の断食はそうした見栄を取り除くための荒療治なのだろうか。
村上が前回個展をやったときに、自分掘り下げ作業として、自分への質問276問というのをやった。どうして276問だったかは自分のことなのに全く記憶にないが。
質問内容はネット上によくあるものだ。
「あなたが1日で一番好きな時間は何ですか?」
「あなたが生きてるなぁと思うときは?」
「今の自分で好きなところを1つ挙げてください」
「自分を叱ってみてください」
「過去においての最も恐怖を感じたことは?」
「何を触るのがいやですか?」
当たり障りのないものからよくわからない質問まで1つづつ回答した。
出した答えに「なぜ?」を繰り返すことで本質的な自分を認識することを狙った。自分を計測する行為として今やっている「ステイローカルミュージック」とよく似ている。
「やりたいことをやる」「やりたいことだけやって生きていく」
こういうのは、インターネット以後よく言われる言葉で、情報や出会いがグローバルなスケールになったことが背景にあるのだと思う。たしかに情報技術の発達で場所に縛られにくくなり価値観が変わったことは事実。でも、「誰の」やりたいことであるかという点は意外と疎かにされていて、最大公約数的幸福をみんなで追いかけまわしている感じもある。情報との出会いだって誰かのレビューやら検索履歴からのおすすめをなんとなく受け取っていて個人レベルで世界は大して広がっていないし、日本語の情報しか見ていない。
むしろどうしてもやってしまうことの方が本当にやりたいことなんじゃないか。
ならばそれはオフラインの日常生活にあるんじゃないか。
それはネット使わなくても今から出来るんじゃないか。
そんなことで靴下は右足から履かないと気持ちが悪いとか、すぐに鼻を触ってしまうとか、そういう生理的な気持ち良さとか悪さを掘り下げるとどうなるかという実験をしてみている。今までよりちょっと詳しく自分のことをよくみてみる。
また、周囲の環境や衣食住インフラなどに目をやると、今までなんとなくやってたことに手を入れていくと気持ちいい感覚があることに気づいて人生変わる。水の使い方変えたり、早寝早起きしてみたり、ソーラー発電してお湯沸かしたり。人格が環境次第なら衣食住や習慣変えていくことで変わっていく気持ち良さに目覚めている。
使う水の量がわかっているとなぜ気持ち良いのか。
早寝早起きがなぜ気持ち良いのか。
効率悪いソーラー発電になぜ感動するのか。
これはローカルのエリアを自分の内部から周りの環境まで少し広げてみる実験だ。
自分のことはなかなかはっきりとはわからないが、これが生理的に気持ちがいいことだけはよくわかる。