アーティスト村上佳奈子「ステイローカル」のスタッフブログ

ウォーホル日記(Andy Warhol Diaries)という本があります。ウォーホルのタイピストとして働いていたパットハケットという人が書いた分厚い書籍ですが、これをヒントにステイローカル日記(Stay Local Diaries)というのを作りました。このブログの記事はスタッフによるものです。

村上佳奈子ウェブサイト
http://www.kanakomurakami.com/
ステイローカルオンラインショップ
https://staylocal.thebase.in/
Instagram
https://www.instagram.com/muccaccum/

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「臭い木」と書いて、クサギと読む名前の植物は美しい青い実を付ける。

誰が名付けたか、臭木の花の匂いはユリのような匂いで自分のありかを我々に教えてくれた。


うちの裏には森がある。

窓を開けておくと、新鮮な空気と、緑の香りと、鳥の声とか、バッタやカメムシ、モリチャバネゴキブリやアシダカグモという闖入者もいるけれど、考えてみれば、どうもこっちが闖入者という気もしてくる、そんな場所にあるアパートである。


ある時期から窓からユリのような香りが入って来るのが気になりはじめ、どこからその匂いが来るのか探すことにした。

玄関から廊下に出て、探す間もなく、原因は判明した。

うちは3階なのだが、廊下の柵から身を乗り出せば手の届きそうなところに、その植物はあった。

そういえば、アシナガバチやクロアゲハが良く来ていたが、そこにはたくさんの小さな白い花をつけた木があり、部屋の中まで匂いを届けていたのだった。


「白い花 森」

「小さい白い花 いい匂い 緑地」

だったか、

植物の名前を検索して調べるのは結構楽しい。

やがてそれが、

「臭木」

だとわかったが、なぜこんな名前をつけられたのか。別に臭いと思わないけど。

さらにその木の実が染物に使えるとわかると、

「きっと染物業者が独り占めするためにこんな名前にしたのだ…」

といらぬ勘ぐりまですることになり、何か大変な秘密を知ってしまったような気分になった。

さらに葉っぱは天ぷら等にして食べれるらしい。

「さては天ぷら屋の陰謀では…」

とは思わなかった。


臭木の身が染物に出来ると分かると、

「やってみたい…」

と思うのが我が家の性分である。


臭木の実で染物をするには、布の三倍の重量の染料が必要になる。

染物に使えそうなのは実の色が綺麗なターコイズの時期が良さそうだった。

それには適切な時期の見極めと、刈り取るタイミングが大切になる。


しかし、いくつかの障害があった。


手に届く位置にある実だけでは染物にするにはとても足りない。

そして思わぬライバルの出現だ。


ヒヨドリは臭木の実を好み、頻繁にやってくる。

我々の臭木の実も例外ではなく狙われ、食べられていた。


ヒヨドリに食べられる前に、実の収穫をしなければならない。

そこで収穫まで間、実の状態を見張るようになった。


見張りでわかったことがある。


臭木は一株にたくさんの花をつけ、それぞれの花が実をつけるが、青く熟すタイミングはそれぞれ違う。

おそらくそれは花同士の生存競争もあるし、熟す時期をずらして何かアクシデントによる全滅リスクを分散する意味があるのではないか。それは種の繁栄への知恵のようなものなのだろう。


感心しながらも高枝切りバサミを購入した。

染めるための手拭いも準備した。


なるべく多くの実が取れそうな日を選び、収穫を開始した。

手の届くところは、手で。

高いところは、高枝切りハサミで。

少しずつ数日ごとに実を集めた。


取れた実は集めてみれば綺麗なターコイズのグラデーション。

洗って大切に冷凍庫に保存した。


ある日、収穫作業の途中でアパートの住人に声をかけられた。


「何してるの?」

「実を染物にしようと思ってまして」

「それ臭いから全部切っちゃってよ」

やっぱり臭いのか…。


手拭い3枚程度を染められそうな量が集まるまで数日かかった。

ヒヨドリの分の実もまだ残っているし、収穫量はこれで良いとしよう。


調べたところ臭木染めの方法は「湯がいて、漬け込めば良い」

とのことだった。

集めた実を鍋で煮る。

青い色が出てきた。

これを1番絞りという。ビールみたいだ。

これをザルに開けて、もう一度煮る。

青い色が出てきた。

これを2番絞りといい、今度は

1番絞りと2番絞りを合わせて、

そこに染めたい手拭いを浸して煮ること20分。

最後に綺麗な水で洗って、陰干しする。

白かった手拭いは薄く透き通る青に染まっていた。

「やはり染物業者が独り占めするためにこんな名前にしたのだ…」

と確信したが、口には出さず、かわりに

「こんな綺麗な青は、今まで見たことがないね」

とつぶやいたのだった。

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スパイス

コロナ渦にあって、基本的な衣食住とか暮らしそのものについて考えたり、実践してきた。
ステイローカルは自分のためのブランドで、自分に合うものは世の中に売ってないというごく当たり前の感覚を取り戻すことができた。

食事でも面倒な手順を踏んで丁寧につくると、外食するよりもはるかに高い満足を得られることを知った。
グリーンカレーを石臼でペーストからつくると死ぬほどうまいものが出来、安納芋の干し芋は柔らかすぎて作るのが大変なのだけれど、悶絶級にうまい。

この感覚は何だろう?
生産者側により近いほうが高い満足が得られる。
自分が生産者になるのが生産との距離感ゼロの満足を得る方法である。

兆候は前からあった。
インターネットの普及で生産者と消費者が直接つながるようになり、消費者は余計な仲介業者を挟むことなく安く早く商品を手に入れることができるようになった。生産者と消費者は近づきつつあった。

コロナで社会的には人と人の距離は大きく取らなければならなくなったが、消費者は生産者側にさらに近づき、究極的には消費者もまた生産者になる流れにある。
コロナが流行りだしたころ、マスクを自作する人は増えたし、家にいることが多くなれば、楽器を始めたり、インスタにアート作品を発表する人が増えたりした。本当は人は何かを作りたいし、作れるのだ。

衣食住に関わるものをひとが自作しなくなったのは、多分忙しいから。忙しくて提供された商品を買うしかないから。
でもそれって高いお金でそこそこの満足を買う発想。
くりかえし踊らされるうちにマヒしていく感覚。

服を作り始めたのはたまたまだが、自分で作った服はそんな感覚を脱ぎ捨てるのに役に立ったようだ。大抵のものは実は自分で作れる。

この分だと自分で家を建て始めるのも、もう時間の問題かもしれない。

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粗忽長屋という落語がある。行き倒れの死体が自分であると、周囲に言い聞かされるうちに自分が死んだのだと思ってしまう男の話だ。行き倒れの死体を抱き「死んだ俺を抱いている俺は誰なんだろう?」というオチ。


現代を生きる私たちも古典落語に出てくる男と同じ。みんな自分のことはよくわからない。


「町でばったり自分に会ってもすぐわかるように自分のことをよく見ておけ」


なんてギャグがあるけど、それは大変重要なアドバイスだ。落語の男と同じようにまわりの期待や環境に形つくられる人格はその周囲の環境に協調するための人格であって、それは一体誰なんだろう?

 

塩田千春の本で美術学生時代、マリーナ・アヴラモヴィッチの授業で断食授業というものがあって、その授業では七日間断食をさせられた末に、朦朧とした状態でメモに一言書かされるというのがあって、その時書いた言葉が自分にとって重要な本質であるというエピソードがあった。「自分の思う自分」というものは結構人目を気にして飾り立てた自分であったり、いつかこうなりたいという憧れからくる理想像のこともある。七日間の断食はそうした見栄を取り除くための荒療治なのだろうか。

 

村上が前回個展をやったときに、自分掘り下げ作業として、自分への質問276問というのをやった。どうして276問だったかは自分のことなのに全く記憶にないが。


質問内容はネット上によくあるものだ。

「あなたが1日で一番好きな時間は何ですか?」

「あなたが生きてるなぁと思うときは?」

「今の自分で好きなところを1つ挙げてください」

「自分を叱ってみてください」

「過去においての最も恐怖を感じたことは?」

「何を触るのがいやですか?」

当たり障りのないものからよくわからない質問まで1つづつ回答した。

出した答えに「なぜ?」を繰り返すことで本質的な自分を認識することを狙った。自分を計測する行為として今やっている「ステイローカルミュージック」とよく似ている。

 

「やりたいことをやる」「やりたいことだけやって生きていく」

こういうのは、インターネット以後よく言われる言葉で、情報や出会いがグローバルなスケールになったことが背景にあるのだと思う。たしかに情報技術の発達で場所に縛られにくくなり価値観が変わったことは事実。でも、「誰の」やりたいことであるかという点は意外と疎かにされていて、最大公約数的幸福をみんなで追いかけまわしている感じもある。情報との出会いだって誰かのレビューやら検索履歴からのおすすめをなんとなく受け取っていて個人レベルで世界は大して広がっていないし、日本語の情報しか見ていない。


むしろどうしてもやってしまうことの方が本当にやりたいことなんじゃないか。

ならばそれはオフラインの日常生活にあるんじゃないか。

それはネット使わなくても今から出来るんじゃないか。


そんなことで靴下は右足から履かないと気持ちが悪いとか、すぐに鼻を触ってしまうとか、そういう生理的な気持ち良さとか悪さを掘り下げるとどうなるかという実験をしてみている。今までよりちょっと詳しく自分のことをよくみてみる。


また、周囲の環境や衣食住インフラなどに目をやると、今までなんとなくやってたことに手を入れていくと気持ちいい感覚があることに気づいて人生変わる。水の使い方変えたり、早寝早起きしてみたり、ソーラー発電してお湯沸かしたり。人格が環境次第なら衣食住や習慣変えていくことで変わっていく気持ち良さに目覚めている。


使う水の量がわかっているとなぜ気持ち良いのか。

早寝早起きがなぜ気持ち良いのか。

効率悪いソーラー発電になぜ感動するのか。


これはローカルのエリアを自分の内部から周りの環境まで少し広げてみる実験だ。

自分のことはなかなかはっきりとはわからないが、これが生理的に気持ちがいいことだけはよくわかる。

ポリタンク
人間にとって「知る」という刺激は強烈なのだ。
また、見えることではじめて意識することがある。

例えば、蛇口から出る水の量。
自分が洗い物に何リットルの水を使っているか知っている人がいるだろうか?
何?環境の話?とか思われるかもしれないが、それは違う。
節約の話?いや、それも違う。

娯楽の話である。

最近我が家ではポリタンクを購入した。容量20ℓのポリタンク。
きっかけはなんだったろうか?

住居のほかにアトリエを借りていて、その水道代が無駄になる。
って節約の話じゃん。いや確かにきっかけはそうだった。

ところで、水道代がどのように決まっているか知っている人はいるだろうか?
そりゃ、使った量でしょ?そうなんだけど、これ結構複雑。
うちの場合、基本料金が860円。
そこから5㎥まではタダ。基本料に含まれている。
ここで㎥についておさらいをしよう。
1㎥は1辺の長さが 1 mの立方体の体積。
水で換算すると1000ℓである。
牛乳パック1000本分。

うちの水道代は毎月基本料を超えて請求されているので5000ℓは余裕で使っているということ。結構使うのだね。

5㎥で860円とすると、860÷5000で1ℓあたり0.172円だ。基本料には人件費や設備の維持にかかるお金が含まれてるのだろうけど、それらを無視するとそうなる。

6㎥から10㎥までは1㎥につき22円。
1000ℓ22円てことは1ℓ0.022円て安い!
11㎥から20㎥までは128円。
1ℓ0.128円に値上げされる。それでも安い。

安いと感じるのは水を買うことに慣れたからか?
いや水の重要性から考えるとやっぱり安い。都市のインフラは偉大だ。

そんな風に水のコスパの高さを可視化するだけでも面白い。
普段意識しない課金システムを知ることも。

もともと安いから料金の節約という目的は失われるのだけれど、風呂や洗濯を使わないアトリエの水道代には多くの無駄があることが判明した。基本料金内の使いきれていない水、これを湧き水と名付けてみた。家から5分ほどのアトリエの湧き水。

最近は毎日湧き水をくみにいく。
使い道は主に洗い物。

ポリタンクを使うと洗い物に使う水の量がはっきりと可視化される。
はじめて洗い物に使ったときは1回の洗い物に20ℓあっさり使い果たした。

アトリエから家に20ℓの水は運ぶのはそれなりの重労働だ。20キロあるから。
しかし、洗い物に使い切るのはあっという間のことだった。
その感覚のずれが面白い。というか驚きだった。

次の日も湧き水をくんでくる。
しかし、2日目の洗い物はお皿の揃えかたや段取りに工夫をしたら、なんと水が余った。
うれしい!て馬鹿か。すぐ横に水道があるのに。

でも人間というものは、「20ℓ以内でやれ」と制限される(誰もしてないが)とその上を行ってやろうと考えるものだ。奇妙な娯楽性が出てくる。
そしてその数日後には半分の10ℓで作業を達成できた。
そこにはかなりの満足感があり、そんなことを続けるうちにやがて目覚めた感覚がある。それは、
「水は偉大」「使用量をわかって使うと気持ち良い」
というごくごくシンプルな感覚である。

こういう感覚を忘れさせていたのは何だろうか。
それは「便利」というレイヤーだ。

便利であることは疑いなくすばらしいものであり、水道を例にとれば、都市ではほぼ例外なく恐ろしい程のコスパの高さで使用することが可能だ。
そのかわり思考は停止する。
どの量が自分にとって必要な量で、どのくらい使っているのか。それにどれだけのコストがかかっているか意識しなくなる。

1度そこに意識がいくと、計測できる普段は目に見えない容量が存在することがわかる。
洗濯1回には100ℓの水を使う。
トイレは1回8ℓ。1日5,6回行くとして、2人で1日約100ℓ。
風呂は1人1回で150ℓくらいなので、2人で300ℓ。

この感覚がどのような表現に発展するかはまだわからない。
しかし、水の量を可視化して使うのが気持ちいいのと、ポリタンクから流れ出るときに聞こえる「トゥクトゥク」という音が生理的に心地よい音であるということだけは確かなのである。

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