赤瀬川原平の凄さは掴みどころのないところだ。

例えば読売アンデパンダン展では、絵画ではなく梱包したキャンバスや千円札の模写を展示し、ハイレッド・センターでは街に出て、日常の振舞いの引用を作品とし、千円札裁判は前代未聞の芸術裁判を行い、その後は路上観察、それからそれから・・・と、芸術やらその他ジャンルのと芯という芯をわざと外すのである。

「四角い枠にこだわるな」
「キャンバスからはみ出せ」
「固定したものはつまらない」

岡本太郎はこう言ったが赤瀬川原平の活動はそのすべてを満たしていた。

しかしそこに爆発のような熱さはない。封建的でアルチザンの日本の芸術に対し、岡本太郎とは違ったヤリクチで皮肉った訳だ。
そこには批判というよりも芸術のレッキとした本流に対するテレのようなものがあった。

誰もが納得するようなレッキとしたものがあるとして、赤瀬川原平の凄さは決してそうならないという覚悟にある。

ハイレッド・センターや千円札裁判など日本の芸術史に残る活動にはそのレッキとしていなさ故の不快な魅力が漂う。
しかしそれは常にレッキとした本流を強く意識したものであり、本流との距離を懇切丁寧に取ることにより漂う不快さなのである。

その根底にあるのは、
「無用でもいい」
というマインドだ。
赤瀬川原平の社会や生活全体を観察する目付きは本人の語っているように夜尿症であったことやサンドイッチマンのアルバイトのから得た経験だけではなく、病気や災害によるどん底の状態からアバンギャルド芸術によって救済されたという点もあったはずだ(どんな芸術も最初に救済されるのは作者であるという真理がある)。

超芸術トマソンは彼の自画像でもあったと思う。

今では世の中役に立たないものは
「使えないやつ」
として軽蔑されるが「無用でもいい」
と言われたらホッとしないだろうか?
レッキとした本流にくっついた無用なものの不快な魅力こそ赤瀬川原平の表現のコアである。

もっとも芸術の世界が本当にレッキとしているかはまた別の問題ではあるし長くなるのだが、
あ、写真をご覧下さい。ここにも芸術をどこかへ持ち出した人がまた一人!


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